昭和43年5月26日 特別奉修委員
                          中村良一


( 途中から )私、私一家という自覚に立って、信心が出来ておる人ほど、信心の有難さというのでしょうか、信心になりたいと言うものを味合うておるものを、そこで皆さん、こうやって、信心に、色々、打ち込んでおられます。特別奉修なども、こら、打ち込んでおる、一つの現れであります。ですから、果たしてその、そして、これはもう、絶対間違いのない打ち込みですよね。最近の御理解から頂いても分かりますように、その、皆さんのこうした勢信心というものが、合楽のお広前を中心にして、願われる、祈られるのでございますから、もう、小さい自分の為の労苦と言った様なものじゃなくて、勢信心がなされておるという事が有難い。やはり、それに打ち込んでいかれる訳ですけれども、ほんなら、果たしてその、間違いのない信心ではあるけれども、果たしてほんなら、どういう、どの程度に打ち込まれておるか、ね。本当にあの、打ち込んでいかなければ、ね。
もう、それはね、あの、例えて言うならば、自分のことのために、一生懸命に、信心が打ち込まれる。打ち込まれて行きよるけども、その打ち込んで行きよるところがですね。決まらないところに打ち込んでいった信心じゃつまらん。決まりよらん、打ち込んだだけに決まらん。それは、結局、小さい竹の、それに目が詰まったような信心だから、打ち込んだがた、値打ちはなか。ところがほんなら、ここに、皆さんが、本当に間違いのない打ち込みの場というものを、いわば、皆さんの巡りが発見したと言うか、皆さんの信心が発見した訳です、ね。こういう風に、こういう生き方に打ち込んでいきゃ間違いのないと言う打ち込みを、皆さんがなさっている訳なんです。ね。
ところが、ほんなら、その間違いのない場だけは発見されたのですから、本当に打ち込まなきゃならん。ほんなら、打ち込んでおるという事になると、ほんなら、どういう風に打ち込んでおるかという事になる訳です。ね。だから、やっぱり、そういう一つの、打ち込みというものが、自分の何かに、こう繋がらなければ、本当に打ち込めないと言う感じが致しますですねぇ。それでその、巡りの深い私達という事の自覚が、いよいよ、出来なきゃならん訳ですが。
えー、昨日でした、御祈念が済んでから、休むちょっと前、あの、茂さんと、それから桜井先生が、私の控えておるところへ見えましてから。まぁ色々な話からでした。ちょうど、そこへあの、電報為替が着いたと言う。あの、原さんの姪御さんに当たります、陽子さんの子供が、大変な高熱で、何日も苦しんでおる。医者に見せておるけれども、三日間、まぁ原因不明で効かない。先生お願いしますと言う電報が参っておりましたですね。それで、私、お届けさせて頂いておりましたら、あの、早速、お礼の、その電報と同時に、今、電報為替じゃなくて、あの、現金封筒の電報が出来る訳ですね。あれで来ている訳です。あの、おかげで、熱が引いた、おかげ頂いたと言う、その事でした。だから、やはり、あの電報でお願いしたのだから、やっぱり、電報でお礼を申し上げなばならん。ここ辺に、やっぱり、あの、ここで稽古をしておりますのは、その辺の所がね、おかげ頂いておると、私、思ったんですけれども。ね。お願いは電報でしといてから、お礼は、また、この次行った時でんという人もありゃ、手紙でという人もあるですよね。恐らく、私は、手紙で、詳しくは言うて来るでしょうけれども、とりあえず、電報でお礼をね、言ってきてる訳ですよね。
あの、これはあの余談ですけれども、あの、やっぱりあの、原美紀さんと言うてから、勿体島から、ずっと参って来よったですたいね。あの人は、この頃から、あの、子宮癌の疑いで入院せんならんち言う。それで、もう先生、どうでも助けて下さいと言うて、切々とした手紙が来ましたんですよ。それからその、お願いさせて頂いたら、まぁそれは、おかげいただいたのか、医者が見違いであったのか知らんけれども、あのとにかく、おかげを受けたんですね。この人達の信心は、何か、本当によか信心でしたもんね。その目立たない信心ですけれども、まぁ同じ神戸におる訳ですから。まぁその、なかなか、いい信心を致しよります。まぁそれは余談でしたけれどもね。
この久留米市合楽町金光教親先生で来とる訳ですね。合楽、ここの番地が、526と言う訳なんですよ。それでその、あんた達は、この、ここの番地が526という御神意は分かるかと、私が言ったんです。そしたら、この合楽という、この地名そのものに、大変な御神意がありますね。番地にも、やっぱりある訳です。皆さんは、どういう風に感じられるですか。526と言うのは、大変な、やっぱ意味があるとですよ。それでね、私がその申しましたんですけれどもね。分からんち。これはね、ここはね、あの、業ですね、業が付録と言う。ね。付録という事は、ついとるという事。ね。業と言うのは、仏教的に言う業ですね。いわゆる、めぐりですね。もうその、巡りの、いわば、皆が、ここは捨て場です。だから、ここのお広前には、その巡りが集まってくる訳ですね、いうなら。その巡りを、だから、ここでは活用しておる訳です。その巡りが、言うならば、このお広前を建立したという事も言えるのですよ。ね。ですから、巡りは、あながち、困ったものじゃなくて、ね。いわば、その毒を変じて薬にする事が出来るわけなんですね。巡りが大きければ大きいほど、おかげが多いという事。ですから、ほんなら、皆さんの一人ひとりも、そういう業の深い、巡りの深い私という自覚に立ってです。とても、普通の信心どんしよったっちゃ、家の巡りのお取り払いは出来んですよね。だから、こういう、例えば、皆さんが、特別に、合楽を中心にした祈りを、一週間に一遍、こうやって、あの奉げさせて貰うという事にですね、打ち込みよることが、私は、巡りのお取り払いを、本当に頂けれるんだと言うくらいの体験とでも言うかね。そういうものを感じれれるところまで、私は、打ち込もうという事になったら、まぁ打ち込む場は、皆さん、ここに得ておられる訳ですからね。皆さんが、例えば、私の店の為に、私の身体の為に、一生懸命、打ち込んでおるというのは、それは、打ち込んでおるようであっても、それはもう、大した打ち込みにはなっとらんですもん。何故かと言うたら、あーた、おかげば頂きよるけんで、おかげを頂きよるなら、もう打ち込みにはなっとらんですもん。ね。
例えばあの、桂先生が仰る様に、御徳でも何でも、巡りが、あの、巡りはもう、その食らうてしもうたと仰るくらい。ね。言うならば、その、おかげがですね、皆さんが、打ち込みよりなさるとは、もうおかげで、もう差し引き検査は出来て行きよるけんで、打ち込みが打ち込みに、いっちょん、なりよらん訳です。そこで、お互いの信心を、もう一段、同じお参りでも、同じ御用でもですよね。焦点を変えよと、最近言われるわけですよね。こうやって、一生懸命、お参りさせて頂きよるとも、ね。もう少し、神様に喜んでいただく様なところに焦点を置き換えての信心にならなきゃいかんと。それを、皆さんは、もうはっきり、形の上に現して、あの、こういう、一週間に一遍の御祈念会でもさせて頂くことになってる訳なんですから。ところが、その、打ち込む場というものは、ここにはっきり得た。これで打ち込みさえすりゃ、間違いのないところに打ち込めれる訳ですね。ですけれども、これが、まぁ言うならば、漠然としたことですから、そこにその、おかげを、本当の打ち込みにならないと言う嫌いがあるのですよ。こういう団体励行、一つの事に願うといったような場合はですね。自分の心の上に、本当にあの、一心不乱になり得ないところの嫌いが、やっぱある訳ですね。
ここは、言うならば、業の集積場とでも申しましょうかね。持って行き場なんですよね。ですから、私共の、こういう信心、間違いのないところに打ち込ませて頂く事によって、自分が、そのめぐりのお取り払いを頂いておるんだと言う、ね。体験を、どこに頂いていくかと。私は、これを、おかげに現していかにゃいかん。ね。やっぱり、特別奉修委員の、あの御祈念の時だけは、違った、例えば、商売でもしておるなら、売り上げが違うぐらいなおかげに現れて来なきゃいけん。ね。そういう、巡りのお取り払いを頂きよるけん、それだけおおか、あのね、巡りのおかげを頂くという事はですね。お取り払いを頂くという事はね。与えられるとと同じ事ですよ。与えるという字を、あの書いてみてごらんなさい。5を引くと書いてある。ね。五、数字の5を書いてから、マイナスが書いてある。5を引くと書いてある。ね。書きようが悪いけれども、ね。5という字、与える。ね。貞与の与ですたいね。これはね、巡りを、あの、業を引くという事。今日、今言うなら、業を、皆さんの、こうやって、打ち込みがですたいね。巡りを引いて行きよるのです、ね。その事は、どういう事かと言うと、神が与えられるという事。まぁ巡りということは借金としましょうか。借金が、一万円なら一万円の借金が支払われよるという事はですね。もう一万円貯金が出来たという事なんです。ね。ここんにきにね、まぁ神様のカラクりと言ったようなものを感ずるです、私は本当は。してみると、巡りてんなんてんちゃ、なかもんだなぁという事なんです。あるものは神愛だけだという事になるです。ははぁ、お前は巡りが深いぞ巡りが深いぞと言うてから、一生懸命、打ち込ませといてですね。本当にめぐりの自覚をですね、やっぱ、感じる訳ですよね。まぁ感じれば感じれんとこはないですね。
例えば、私の所のほうの、あの、足に巡りがあるといや、もう皆が、足が悪いでしょうが、私の方は。親戚まで悪いです。ビッコやら、チンバが多いとです。しかも、(  ?  )とにかく多いです、家は。ほんなごつですよ。ね。だから、大坪の家に、如何に足の巡りがね、あるかという事を感じん訳にはいかんとです。ね。けども、それとてもですよ。それとても、言うなら、神様のカラクリのような感じがするです。カラクリと言うと言葉が悪いですけれどもね。そして、本当に、めぐりの自覚を実感させて頂くですね、神様から。そして、このくらいの目に合うことは当たり前じゃろう、巡りが深いとじゃけん、こんくらいのこつは当たり前、こんくらいな修行、だから、人並みの修行じゃ、家は出来んというので、人が人偏なら行人偏という様な修行になってきた訳なんです。ね。そして、そら、人が人偏なら行人偏という事は、一家を挙げてならせて頂くことになってきたところがです。それは、めぐりのお取り払いを頂いただーけは、神様が貯めてあってござったと言う感じがします。そして、それは、
( 途中切れ )